猿の恩返し 村社 鳴谷 神社
開かれたとき、二十一社の小宇を建て守護神として
お祀りしたのが始まりであり。
元亀年に伊勢長島一揆が起こり
滝川一益が鎮圧したが、
北勢員弁地方の神社仏閣を、
ことごとく焼き払い
鳴谷神社もその難を逃れる事ができなかった。
改宗になった時、村の氏神として
社殿を改築したとされています。
鳴谷 神社
【村社】
通称 宮さん
(お猿さんが建立を手伝ったという)
大山咋命(おほやまくいのかみ)
祭神(合祀)(旧藤原村各地に祀られていた)
豊受比売命(とようけひめのかみ)
軻遇突智命(かぐつちのかみ)
大山津見命(おおほやまつみのかみ)
猿田彦命 (さるたひこのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
金毘羅大神(ことひらのおおかみ)
稲倉魂命 (いねくらみたまのかみ)
「狛猿」男猿
「狛猿」女猿
これが狛猿(まさる様)
「優る」「勝る」「魔去る」に通じると言われます
猿の恩返しが狛猿の石像として逸話が残ります。
因みに、
八幡様は鳩、春日様は鹿、稲荷様は狐、天神様は牛・・
共に、神様の使いとされます。
「拝殿」
石橋を渡り真っ直ぐすすむと、
杉の木が高く鬱蒼としています。
静かでとても落ち着いた気持ちになれます
杉だけでなく色々な、樹木が立ち並んでいます。
守護神として、近江国の
(山の神=衣食住すべて与えて下さる神様)
明治以前は、日吉山王社と呼ばれ
「みざる・聞かざる・言わざる」に加え(恨み・怒りを)
「思わざる」という山王神道の基礎となり、
数百年経っても変わらぬ教えを伝えています。
さらに、言えば
「悪いものは見ない、悪いことは言わない、聞かない」
「良いものを見、良いことを聞き、良いことを言う、実行する」
私たちは、一人では生きていけないことを認識し、自分の周りの人にも
感謝の念を持っていくことが大切
迷わない、心配しない、怖がらない、堂々とした強い心を
養ってくれるものと思います
「アクセス」
0594-46-3581
尾高山 和光院 引接寺 尾高観音堂
桧の古木が綺麗に美しい林を作っている
その昔、孝元天皇の御代に生まれた女性が
仏像を安置し信仰したのが始まりと言われます
その後、御堂を建立し聖徳太子が彫り込んだ
千手観音菩薩立像を安置し、
桓武天皇より引接寺の勅願を賜り
寺運が隆盛、平安時代には、
源義家が戦勝祈願したとされています
天正年、信長の伊勢侵攻の兵火により
豪壮の七堂伽藍の堂宇を失い廃寺となったが
江戸時代杉谷村は桑名藩領下に組み入れられ
浄土宗照源寺の末寺におかれた。
中世は天台宗で、熊野信仰の杉谷寺として
総称され
古くから「尾高の観音さん」として
地元の方に親しまれてきた
「御詠歌」
分け上る 高の峯に 雲晴れて
匂ふ朝日の 影ぞさやけき
(┬┬﹏┬┬)
宗派 浄土宗鎮西派
本尊 千手観音菩薩
真言 おん ばざら たらま きりく
開山 不明
開創 不明
札所 伊勢西国三十三所観音霊場 元二十五番札所
「手水舎」
「六角堂」
小川を渡って階段を上ると六角形をした観音堂に到着します。
聖徳太子の作とされる、
本尊 千手観音菩薩立像を祀っている。
逗子は桑名城主の寄進と言われる。
六角堂を守っているのか
参拝時、虻が寄って来るので注意して下さい
特に、夏の時期は向かって来ますので当たると痛いです
「御朱印」慈眼寺受付
「アクセス」
海上守護第一霊峯 青峯山 正福寺
国立公園 伊勢志摩の中央、青峯山上にある
山号は青峯山といいます。
聖地といわれ、本尊 十一面観世音菩薩は麓の、
相差の海より鯨の背に乗って現れたと伝えられています
伊勢神宮に参詣、朝熊岳にこもられた時、
夢のお告げあり
「青峯山に霊験あらたかな観音像あり
この地に伽藍を建立し尊像を安置すれば、
直ちに諸願成就すべし」との霊夢を蒙り
その後、大同年 平城天皇の論旨を受け
当寺は三十余坊もあったが、のち衰退し
貞享年 僧弁竟が再建し中興の開山となる
由緒深き、十一面観世音菩薩は
勝宝年 菩堤法師により
本仏を造り、尊像を腹中に納め三重の宝箱を
容れ秘仏とされました。
青峯山 正福寺
通称 嵯峨御所
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観世音菩薩
真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
開山 行基(菩薩)
開創 天平年
札所 伊勢西国三十三ヶ所観音霊場 番外
「御詠歌」
第一番
慈悲の海深き 誓のたのもしき
青峯山に 参る身なれば
第二番
世を救ふ 仏の誓萬世も
変わらぬ色の 青の峯かな
第三番
はるばると登れば ここに正福寺
峯の嵐も みのりなるらん
第四番
み仏の誓の海を 渡るには
あをの一字を 忘るるなゆめ
第五番
曙にまほうちあげて 志摩路潟
青の御寺にみゆる桃舟
(┬┬﹏┬┬)
金堂、大門は三十年の歳月をかけて文化年に完成
江戸時代後期の彫刻集団、立川流の見事な彫刻
巨刹のたたずまいを見せてくれますまた、
大門の彫刻に伊勢エビが彫られていますので
探してみて下さい。
「大門 四天王立像」
「鐘楼堂」
「夫婦杉」
平清盛が植えたとされている
伊勢湾台風で男杉が倒壊、女杉のみが残っている
やはり強い・・・・
「手水舎」
「金堂」
本尊十一面観世音菩薩立像を始め
数体の尊像が祀られている
「聖天堂」
本尊聖歡喜天
縁結びの御利益があります。
( 下写真右)
「大師堂」「弁天堂」
「薬医門」
「御朱印」
伊勢西国三十三ヶ所観音霊場
0599-55-0061
「絶景」
展望台よりの眺望は、
「アクセス」
鳴谷山 聖寶寺
山号を鳴谷山といいます。
開山された古刹で
建立当寺、七堂伽藍を有する広大な境内があった。
しかし、戦国時代に信長の家臣 滝川一益によって
員弁攻略の兵火により焼失し
その後、徳川中期に臨済宗妙心寺派として
大圓宝鑑愚堂和尚が開山され再興されたといわれる。
唯一焼失を逃れた、庭園は
藤原期の華やかな造庭がうかがえる
春の桜、夏の緑(紫陽花)、秋の紅葉、冬の雪景色と
四季折々の景色が訪れる人を和ませてくれます。
特に、夏は聖寶寺の境内の傍を流れる
藤原岳の伏流水が集まった鳴谷の滝は、
心洗われるひとときを過ごせ、
夏の涼をとる場所として人気があります。
ですが
やっぱり一番は、この聖寶寺の庭園の
美しさを放つ秋でしょう
藤原町は県内でも、比較的雪が多い場所で
気温も低くいち早く赤や黄色の紅葉が楽しめ
毎年、紅葉祭り開催期間中は、多くの人で
賑わいます。
「御詠歌」
迷ひ路の 便りともなる 谷なれば
入ぬる人の 悟らぬも無し
(┬┬﹏┬┬)
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 十一面観世音菩薩
真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
開山 大圓宝鑑愚堂和尚
開創 万治年(徳川中期)
札所 伊勢西国三十三所観音霊場 二十九番札所
「本堂」
「玉広稲荷神社」
地元の住人、玉野氏が白狐の霊夢をみて
聖寶寺の住職と共に稲荷総本宮に行き
分霊を奉載し祠を建立
「境内造庭」
十一月後半頃境内のもみじも真っ赤に色付きます
なお平成三十年でもみじ祭は終了
夜間のライトアップはされてない模様
「御朱印」
「アクセス」
0594-46-8101
いなべの農家やお店直営の畑でとれた野菜でつくる
ビュッフェ料理でヘルシーでおいしいと評判です。
地元の味噌ほか調味料に拘った野菜料理
「農業レストラン フラール」
いなべ市藤原町鼎(かなえ)3071
0594-46-6370
水曜定休日 営業時間 11時~14時
地元の素材にこだわり、
体に優しい、思わずほっとしてしまう。
「Patisserie Cafe こんま亭」
0594-78-1649
年中無休 営業時間 10時~19時
今が、旬の栗をたっぷり使ったケーキ
いなべのお山(栗) 1450円
いなべのキャベツ
光孝天皇 勅願所 丹生山 近長谷寺
山号を丹生山といいます
千年以上の歴史を誇る古刹で、
勢和村丹生の地から産出された水銀で富を築いた
始まりだが、大雨洪水で堂宇は破損
本堂は真海上人が長い歳月を要し再建
その後、政尊が僧堂を建てたが
さらにまたもや大雨洪水で堂宇は破損
快舜によって現在の本堂が再建された。
五穀豊穣・開運・家内安全と
村の守り仏として多数の信者を有し、
伊勢の皇大神宮に近い事から
「近長谷寺」として改称された。
御本尊の十一面観世音菩薩は、
「日本三観音」として国の重要文化財に指定され
広く知られている中でも、右手に錫杖を添える姿は、
日本唯一のものです。
意外に三重県の人にも殆ど知られていない。
国宝の日本三観音は三体の仏像を
一本のクスノキから造られたと
伝えられている。
「御詠歌」
大和なる 長谷の寺も これと又
同じ御法の 道にこそゆけ
(┬┬﹏┬┬)
宗派 真言宗山階派
本尊 十一面観世音菩薩
真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
開山 飯高宿禰諸氏
開創 仁和年
札所 伊勢西国三十三所観音霊場 十一番札所
三重四国八十八ヶ所霊場 七十九番札所
「鐘楼堂」
梵鐘は政尊が慶安年に天命図書安次に造らせ
梵鐘銘文は伊勢宇治真常院の僧、亮典が撰文
「本堂」
「本尊」
逗子よりチラッとのぞき込む
十一面観世音菩薩
「御朱印」
「アクセス」
多気町の長谷と神坂という山あいに立つ
と千年以上の古い歴史の古刹がある
そのためか、地元の人たちはこの地に親しみを込め
是非とも、この多気町に来て頂き、
現物の御本尊 十一面観音を拝観してほしい
駐車場から険しい山道ですので、
歩きやすい靴で参拝してください
(歩きやすいように舗装してありますが)
毎月の18日と土・日以外は本堂は閉鎖して
ありますのでご注意ください
参道鳥居のところに、
杖がおいてあります遠慮せずに使いましょう。
帰り道は滑りやすいので気をつけて下さい。
また、近長谷寺の裏手には、
「近津長谷城址」があります
貞和年、楠木正行の挙兵に呼応し
外宮禰宜の度会家行らが
兵糧米・具足をととのえ構えた
田丸城・一ノ瀬城と共に北軍を悩ました
伊勢における南朝の拠点の城であった。
裏手にある城跡への登り口
まだまだ、長谷地区には
珍しい車田(田んぼ)があります
大きさは、近長谷寺の十一面観音様にちなんで
半径11メートルとなっています
なぜ、車田なのか
車状に植えるのは、
豊作の神が降りてくる目印ともいわれ
又、恵みの太陽を表すともいわれています。
因みに、この長谷の車田でとれたお米は、
近所の伊那神社に献上され、又
近長谷寺の春季大会式(2月18日、厄払い)の
餅投げの餅米として献上されています。
多度山 法雲寺 多度観音堂
山号を多度山といいます。
多度大社の東、鷲の倉の地に満願禅師が道場を開き
丈六の仏像を安置し日々、礼拝し
修行をしていたといわれます
多度大社の神託を受け堂塔の建立を発願し
この地に堂を建立
そして神像を祀って多度大菩薩と号していた
郡主水取月足から、鐘楼と銅鐘の寄進を受け
美濃の近士県主新麻呂から三重の塔の奉納をうけ
寺院の基礎が出来上がったと云われます
承和年、当寺を天台の別院とする勅命があり
嘉承年、真言の別院とされ、寺号を宝雲寺と称した
鎌倉中期の建暦の頃、盗賊の手により炎上
室町中期には明応地震と災禍に見舞われた
更には、
多度大社で信長の調伏祈願をおこなった為
押し寄せ、多度大社共々、堂塔のすべてを
兵火により焼失、その後、太閤検地により
寺領・社領の廃止に遇い寺威は衰退した。
江戸時代、
桑名を領した本多忠勝の多度神社復興に次いで
元和年、
住僧良心法師が大修理を行い
大社の別当として宝雲寺を再興したが
法雲寺は廃寺となった。
現在、多度大社のお手洗い川の畔に観音堂を
建てている
「御詠歌」
今までは 親と頼みし 笈摺を
脱ぎて納むる わしのくらにて
(┬┬﹏┬┬)
多度山 多度観音堂
宗派 真言宗
本尊 十一面観世音菩薩
真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
おん ばざら たらま きりく
開山 満願禅師
開創 奈良時代
札所 伊勢西国三十三所観音霊場 三十三番札所
「本堂」
本堂にある梵鐘は、宝永年金沢の鋳物師
平井与兵衞尉永能 作
戦争の為、多くの梵鐘は供出され
古い時代の鐘は非常に少ない
「本堂内」
十一面観世音菩薩 千手観世音菩薩
満願禅師
「御朱印」
多度観音堂のすぐ隣にある
衣食住を司る神様、家内安全、
商売繁盛、社運隆盛
「多度稲荷神社」
「手水舎」
「拝殿」
全国に多数鎮座する「稲荷社」
多度山登山道を登ると本物に出会えるかも
又、多度稲荷神社には、
婚活守り(狐様のコンコンからか?)があります
これからの方は、どうぞ!
「アクセス」
雨尾山 味光院 飛鳥寺
自然豊かな地に建ち、木曽三川を眼下に
濃尾平野を一望できる高台に建ち、四季折々様々な
表情を見せてくれる雨尾山にあります。
開山は千余年続く古刹であり
喰えた霊鳥が、近隣山中の坊ヶ谷に降り立ち
その噂を聞いた、弘法大師が来山したところ
霊鳥が十一面観世音菩薩に
変化したと伝えられています。
その後、寺は大いに栄えたが、元亀年
寺域一里半、十二の伽藍が並ぶ密・律・禅の
元禄年、地蔵菩薩の像を手に入れた
桑名藩士、南条三太左衛門宗親が安置場所を
探し雨尾山に登った際、寺跡の草庵の
中から、十一面観音の頭を発見、
宗親は奇異感嘆し
京都より仏師を招いて修復し房舎一宇を再現し安置した。
「御詠歌」
雨の尾の 嵐の風は しげけれど
雲井はるかに 鳥ぞ飛来る
(┬┬﹏┬┬)
宗派 真言宗東寺派
本尊 十一面観世音菩薩
真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
開山 弘法大師
開創 延暦年
札所 伊勢西国三十三所観音霊場 三十二番札所
「鐘楼堂」
「本堂」
現在、当寺は
山ノ城城跡に移っており
坊ヶ谷の跡地は飛鳥廃寺跡と呼ばれている。
「御朱印」
境内にある
農業・商業・産業の神
「三吉稲荷社」
境内左にあるお社
「眺望」
「アクセス」
0594ー29ー2019