神社仏閣参拝とオヤジの休日

中部地区を中心に趣味の小旅行(神社仏閣参拝)を私的観点から綴っています

近江国 水口岡山城址

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東海道五十番目の宿場町である水口は、

都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、

水口岡山城は、現在の水口城の東、

古城山にあり、古城、岡山城とも呼ばれる。

この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」

といい、山頂には「岡観音」と呼ばれた

大岡寺(現在は麓に移転)があった

この土地に豊臣秀吉の命によって築城

東海道を眼下に東西に通り、鈴鹿越えの道を

押さえることを意識した当時の

秀吉の天下統一における東国制覇の戦略がうかがえ

水口岡山城は、豊臣政権における

甲賀支配の中核となる城だったといえます。

五奉行」に名を連ねる

増田長盛長束正家が城主となり、豊臣政権下の

拠点城郭として機能しましたが、しかし

関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、

南宮山麓に布陣していたが戦闘には参加できず敗走。

水口岡山城に籠城したが追ってきた

池田長吉、亀井茲矩らに攻められて降伏、開城し、

長束正家、直吉兄弟は切腹させられた。

城はその後池田長吉の預かりとなったが、

徳川幕府によって廃城とされ、城の石垣は

後に水口城の築城にあたり、部材として転用された。

現在は通称「城山(しろやま)」と呼ばれ、

市民に親しまれており、

山中に残る石垣などの遺構から当時の面影が偲ばれます。

 

別 名 古城山城 岡山城 古城

築城主 中村一氏

城 主 中村一氏増田長盛長束正家

 

段ボールやバルーンなどで天守を再現する

よみがえれ水口岡山城」が不定期開催されている

 

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麓から100m高い山頂には、江戸時代の絵図に「天守

と記された広い平坦地である曲輪や櫓台、

堀切が連続して配置され、山腹には竪堀や帯曲輪、

虎口(出入り口)などの遺構が

今も地形に良く残っている。

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北側斜面の一部に残る石垣は、

安土城跡と並ぶ貴重な高石垣で

甲賀最大の山城の勇壮さを伝えている。

山頂部にある本丸主郭には東西両端に礎石が残り、

両側に天守クラスの大型の高層建築物建ち、

総石垣であったとされる。

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 長束正家は、織田信長重臣丹羽長秀に仕え

才能を秀吉に認められ大抜擢後に、石田三成増田長盛

と共に五奉行の一人として活躍近江国の出身で

計数に明るく財政面の担当をした。が関ヶ原の合戦

敗れ、水口に敗走したが岡山城は家康の甲賀衆に

占領され近江日野まで落ち延びたが身体窮まり自害したと

いわれる説もある

加藤清正福島正則などの武将に対して、五奉行

いえどもそりが合わず、そこを家康に突かれ策略にはまった

 

本丸に鎮座していた阿迦之宮

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山麓にあった大岡寺の奥の院として、

水口岡山城 三代目城主 長束正家を祀っている。

  本尊 聖観世音菩薩

 

水口岡山城から見た水口城

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おみあげにどうぞ!

水口岡山城」御城印

初代城主である中村一氏の家紋

   「立沢瀉(たちおもだか)」

2代城主・増田長盛の家紋「升紋」

3代城主・長束正家の家紋「花菱」

本丸東櫓台跡より出土した鬼瓦の文様

がデザインされて

揮毫は長束家の子孫である花輪竹峯氏

によるものです。

書き置き1枚200円(税込)

甲賀市ひと・まち街道交流館

で購入できます。

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甲賀市ひと・まち街道交流館

  甲賀市水口町八坂7-4番地

   0748-70-3166

甲賀市観光協会

  甲賀市水口町京町
   0748-60-2690

 

 長束正家菩提寺

   安乗寺 

   日野町中之郷719