聖武天皇勅願寺 普門山 観菩提寺
三重県の西北端に位置し、古来より伊勢より
大和や山城に往来する人々や物資が行きかった
観菩提寺・正月堂が在ります。
かっては広国寺だったとか
槇山寺だったのか諸説があるが・・・
奈良東大寺の実忠和尚により
開創されたという由緒ある寺院で、
本国において最も有名な古刹。
あの有名な、東大寺二月堂の
お水取り(二月十一日・十二)に先駆けて
お水取りが、行われる事で有名なお寺で、
お水取り発祥の地と伝わります。
境内には、閼伽井(あかい)があり
寺の近くには、正月堂の鎮守として
鵜宮神社が鎮座されており
二月十二日に行われる修正会
(五穀豊穣・無病息災を祈念して行われる祭り)
に練行衆として参加されます。
神代の話では、修二会が行われる時に、
全国の神々が招集されると言い伝えられている
因みに、
若狭の明神様が魚釣りに夢中で遅刻してしまい
お詫びに、若狭の清水を送ろうと祈ったところ
白と黒の鵜が飛び出し、同時に泉が湧き出たと
伝えられています。
修二会では、この水を観音菩薩に供えるので
「お水取り」と言う名前が生まれたそうです。
普門山 観菩提寺
本尊 十一面観世音菩薩
真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
実忠和尚
開創 天平勝宝年
御詠歌 松風や 清水を結ぶ 袖よりも
菩提の植木 涼しかるらん
観菩提寺仁王門(室町前期)
「国重要文化財」
扁額が二つあり、上額は山号下額は寺号が
あまり、見かけない一門二扁額
両像共に睨みをきかせています
体型的には、頭が大きく体は痩せている共に珍しい
右に「阿形像」
左に「吽形像」
仁王門(後方)
観菩提寺本堂(正月堂)室町前期建立
「国重要文化財」
堂内には、本尊十一面観音菩薩をはじめ
十一面観音立像三躯
全て平安時代の仏像らしいです
本尊 十一面観音立像
「国重要文化財」
木造立像で高さ205㎝
三十三年に一度のご開帳の秘仏で
十一面観音としては珍しい肘から手が分かれている
左第一手は未敷蓮華・第二手は操瓶・第三手は三又戟
右第一手は施無畏印・第二念珠念珠・第三手は宝棒
を持っている。
施無畏印を結ぶ右手に五色の紐が結ばれており
本堂の外に立つ五輪塔をかたどった回向柱に
繋がっています。参拝時には回向柱に触れ
仏様からの、功徳・ご利益を授かるとされてます。
因みに
前回のご開帳
2015年11月1日~8日
次のご開帳
33年後の2048年
観音山参道入口
西国三十三ヶ所霊場巡りの遊歩道も
整備されております。
閼伽井(あかい)
「お水取り」の儀式に利用する湧き水
(ネットより引用)
「御朱印」
三重四国八十八霊場
「アクセス」
名阪国道大内インターより 車20分
駐車場「無料」あり
受付時間 9:00~16:00
0595-59-2009
その他の建物もあったらしいが
天正の伊賀の乱で焼失してしまった
だがなぜ本堂と楼門が助かったのか
諸説によると
当時、この一帯を治めていた島ヶ原一族が
(源頼政の家臣・渡辺競の末裔)
一族の象徴としていた観菩提寺を守るため
伊賀の乱において織田軍に降伏したと言われ
受け継げられているらしい
後鳥羽法皇勅願寺 伊賀成田山 新大仏寺
室生・赤目・青山国定公園と言う緑豊かな
伊賀の地にその昔、源頼朝は叔父の佐々木秀義の
追善供養の為、一宇を建立
その後、東大寺を再興した俊乗坊重源上人が
伝えられる。
大仏殿の復興事業を指揮した僧として知られて
「新」をつけて「新大仏寺」にした
鎌倉時代には、十余坊を有していたが
天正年の戦乱で、伽藍の大半を失い荒廃
当時、芭蕉が当寺を訪れ
「丈六にかげろう高し石の上」と
荒廃ぶりを嘆いた
その後、陶榮和尚が再興を発願し、藤堂藩の
庇護を仰ぎ大仏修復を終え
中興二世宝梁律師が大仏殿を上棟し入仏
呼んでいる、また「阿波の大仏さん」
雨乞いの寺として古くから歴史を刻む
伊賀国屈指の大刹である。
五宝山 新大仏寺
宗派 真言宗智山派
本尊 毘廬遮那如来
真言 「おん あびらうんけん
ばざら だどばん」
開山 俊乗坊重源上人
開創 建仁年
大仏寺大門仁王像
「阿形像」
「吽形像」
「明王殿」
本尊 不動明王立像
高台の法面に
「慈母観音」(子育て観音)
「白寿観音」(長寿延命観音)
「楼鐘堂」平和の鐘
「大佛殿」(金堂)
大佛殿内
本来の本尊は毘廬遮那如来坐像であるが
宝蔵庫に祀られ、大佛殿には
「釈迦如来立像」を本尊としています。
欄間の飛天絵(鼓を打つ飛天・太鼓を打つ飛天)
豊かな色彩のまま残されています。
本尊後陣に祀られている
「役行者と前鬼・後鬼」
「十一面観世音菩薩」(平安時代)
「岩屋不動尊」(江戸時代)
岩肌の半洞窟に像高六メートルの
毎月1日・15日
護摩供が行われます。
毎月28日
お不動さん縁日
本堂(上人堂)(江戸時代)
祀られています。
「宝蔵庫」(新大佛殿)
本尊 毘廬遮那如来坐像
俊乗坊重源上人像 が祀られています
ちなみに、俊乗坊重源上人像(鎌倉時代)は
全国に四体しかなく、東大寺・
新大仏だけだそうです。
是非、拝観を!!
「江戸時代の仏師立像を座像に !!」
「国重要文化財」
新大佛殿・二階中央に輝く大仏如来坐像
像高は四メートル、
蓮華座から光背までの総高は六メートル
現在は毘廬遮那如来座像としてお祀りされているが、
もともとは、阿弥陀如来立像として造られた
頭部のみが仏師快慶が造った当時(鎌倉時代)のもので、
体部は江戸後期に修復改変されたらしい
ちなみに頭部には、快慶の銘がある。
地元では「阿波の大仏さん」として知られている。
ネットより引用
「大師堂」(元文年建立)
ペリーが浦賀来航時、
国難消除の祈祷を修伝わる伝わる
をお祀りしています。
毎月21日
弘法大師御影供が行われます。
「芭蕉歌碑 丈六塚」
~丈六に 陽炎高し 石の上~
貞享五年、芭蕉帰省のさい
二人の旧友とともにこの寺を訪れたときの
様子を読まれた句
ネットより引用
緑深い山が境内地になっており
境内では、桜・紫陽花・紅葉など秋名菊が楽しめる
また、西国三十三ヶ所霊場巡りの
遊歩道も整備されております
一度、足を運んで見ては如何でしょう。
ちなみに、手前はもみじ奥に桜が咲いています。
「御朱印」
三重四国八十八霊場
開かれた、東大寺の別所で
全国に七ヶ所設けられた内の
伊賀別所として創建されました。
俊乗坊重源上人の「東大寺七別所」
高野新別所・高野山円通律寺
渡辺別所 ・大阪灘波津(跡地は不明)
播磨別所 ・小野市浄土寺
備中別所 ・岡山(跡地は不明)
伊賀別所 ・伊賀市新大仏寺
伊賀上野には、
大和・山城・近江・伊勢
を結ぶ街道があり、
道筋のいたるところに祖先の残した
文化遺産があります。
「アクセス」
名阪国道・中瀬インターを下車、津方面へ約20分
津方面より国道163号を上野方面へ
新長野トンネルを越え約5分
駐車場無料有り
受付時間 9:00~16:00
拝観・新大仏殿(宝蔵庫)拝観料 三百円
0595-48-0211
朱雀天皇勅願寺 那智山 松寿院 石上寺
その昔、大和国・布留郷(ふるのさと)の住人
「紀真龍(きのまたつ)」が石上神宮の神告により
新熊野三社として祀ったのが新熊野権現社の起源
紀真龍は別当職として、この亀山の地に家族と共に
移住し、和田の里を開き伽藍を増やしていった
その後、長徳年、疫病排除の為
勧請して祀られた。
壮大な神廟寺院も永禄年の織田信長の
伊勢進攻の兵火を受けた
幸いにも、権現社・地蔵堂は難を逃れた
正保年に再興、正徳年に僧是幼が
中興し現在に至っている。
那智山 松寿院 石上寺
宗派 高野山真言宗
本尊 子安延命地蔵菩薩
真言 おん かかかび さんまえい そわか
開山 紀真龍
開創 延暦年
東海近畿地蔵霊場 第 五 番
道ならぬ 事なかなえて さりともと
思いたがえて 我いのるとも
「本堂 」
毎月24日は地蔵菩薩縁日が行われます。
「地蔵堂」
「南無大師遍照金剛」幟の中心に立つ
弘法大師像
毎月21日は弘法大師御影供が行われます。
「虚空尽き衆生尽き 涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」
これはお大師様が万燈会を修せられた願文の一節で
御誓願を表すものとして有名なものです。
「われ永く山に入らん」
この世が尽きない限り、また衆生の人々が悟りを開き
幸せになるまでこの世にとどまって人々を救うという
強い願いを持って高野山に御入定されたのでは
ないでしょうか。
合掌
高野山真言宗様より
「楼鐘堂」
「権現社」
熊野三社を祀る拝殿
拝殿扁額には、「熊野大権現」の文字
「御朱印」
三重四国八十八霊場
「アクセス」
JR井田川駅より南西1.5K
JR亀山駅より三交バス栄町住宅前から徒歩3分
0595-82-0788
お車の方専用駐車場あります。
国司北畠氏祈願所 御嶽山 真福院
知られている。
当山の草創と伝えられ
北畠氏の祖、中院通方卿が堂塔を建立
山門前には鎌倉期の石仏、石碑が群集しており、
当時の隆盛が偲ばれる
正和年、失火により堂宇を全焼
文保年、滝覚坊が再建復興さらに
一族の祈願所とした。
天正年伊賀乱の兵火により本堂を残し焼失
元和年、慶安年と復興され
明治の神仏分離令により寺院となったが
今もなお「お宮さん」としての信仰も続いている
御嶽山 真福院
宗派 真言宗 醍醐派
本尊 蔵王大権現
真言 おん ばざら
くしゃあらん じゃうん そわか
開山 役役者
開創 白鳳代
真福院の門前にある石碑群
弘長年(鎌倉時代)の銘が刻まれています。
樹齢1000年と言われる大欅が並ぶ
石段を登って行くと杉の巨木その緑の中に
朱色の山門が見える。
「山門」
「手水舎」
本堂「蔵王堂」
「大師堂」「観音堂」
「護摩堂」
「御朱印」
伊勢本街道(国道368号)から
御嶽山真福院までの参道は
500本余りの山桜が立ち並び、
国指定名勝文化財「日本桜名所100選」に選定
されている
残念ながら、今年は・・・・
今から600有余年前、
桜を植えたのが始まりであり。
南北朝時代から戦国時代
北畠氏の本拠地であった全盛の時代さらに
2万本の桜が立ち並んだと云われます
因みに満開時の上空からの参道
津市観光協会様 撮影
美杉村には、
道筋のいたるところに祖先の残した
文化遺産があります。
「アクセス」
059-274-0716
ヤマトタケルを祀る 加佐登神社
加佐登神社・本殿北西にある白鳥塚(白鳥御陵)
この白鳥塚のそば、小碓命の形見
「笠」と「杖」をお祀りしたのが
加佐登神社の始まりと云われます。
若い頃から武勇に優れ
西国九州の熊襲タケル・出雲タケルなどの
豪族を従えてまわり、帝の命令により
東国の蝦夷からの統一に向かった
東国を統一した帰り道
尾張国のお妃・美夜受比賣命に
伊吹山に向かいました。
動かない体を引きずって、能褒野の地
にたどり着き、大和を望んでその短い生涯を
終えたと伝えられる
わずか30歳余り、最期の地三重も
ヤマトタケルの説話からきています
日本武尊(倭建命・ヤマトタケルノミコト)
祭神 (合祀)旧高宮村内各地に祀られていた
速玉之男命 (はやたまのおのみこと)
伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)
豫母津事解之男神(よもつことさかのおのかみ)
天羽槌雄神 (あめのはづちおのかみ)
天照大御神 (あまてらすおおみかみ)
豊受大神 (とようけのおおかみ)
大雀命 (おおささぎのみこと)仁徳天皇
大國主命 (おおくにぬしのみこと)
息長帯比賣命 (おきながたらしひめのみこと)
火之迦具土神 (ひのかぐつちのかみ)
伊邪那美神 (いざなみのかみ)
菅原道真 (すがはらのみちざね)
大山津見神 (おおやまつみのかみ)
気吹戸主神 (いぶきどぬしのかみ)
建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと)
「手水舎」
「本殿」
「境内社」(五社合殿)
大物主神 (おおものぬしのかみ)
小毘古名神 (すくなびこなのかみ)
日代神社
景行天皇 (けいこうてんのう)
稲荷大神社
建速須佐之男神 (たけはやすさのおのかみ)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
大市比賣神 (おおいちひめのかみ)
多度神社
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
天目一箇命 (あめのまひとつのみこと)
内内神社
建稲種命 (たけいなだねのみこと)
美夜受比賣命(みやずひめのみこと)
他、境内には先代以前の神主が境内にて見つけた
弧帯状の白い模様の見られる石が置いてある
つけていた笠を祀る「御笠社」と伝わるが
そこから派生し、この名も無い石も
諸病平癒の御利益があるとされている。
「御朱印」
「白鳥塚古墳」
加佐登神社・本殿北西にある白鳥塚(白鳥御陵)
加佐登神社の北西にある「帆立貝式古墳」
古くから日本武尊の御陵として伝わっている
江戸時代、この高宮の地(現鈴鹿市加佐登町)は
東海道の宿場町「石薬師宿」と「庄野宿」の間に
位置している事もあり、都や伊勢参りに行く
人たちが立ち寄ったとされています
東海道の浮世絵にも描かれているようですよ。
正式に治定されていたが
数年後、亀山丁子塚へと改定された
倭は 国のまほろば
たなづく 青垣
山隠れる 倭し美し
・
命の 全けむ人は 畳薦
平群の山の 熊白檮が葉を
髻華に挿せ その子
・
はしけやし 我家の方よ 雲居立ちくも
・
嬢子の 床のべに
わが置きし 剣の太刀
その太刀はや
・
・
(ヤマトタケルの国偲び歌)
鈴鹿の山々を眺めながら故郷、
大和を偲んだ歌
「アクセス」
059-378-0951
2021/3/27
温泉の神を祀る 式内社 射山 神社
三重県津市の榊原にある射山(貝石山)の中腹に鎮座
後に現在の温泉地の一角に移されたとされています。
貝石山の西麓に湧いていた温泉が七栗の湯
里人は神湯・宮の湯とよんでいた
かつては射山・湯山とも呼ばれ
貝石山は射山神社の御神体とも云われています
射山 神社
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
祭神(合祀)
大鷦鷯命 猿田彦命
御神徳
開運・縁結び・五穀豊穣・無病息災
家内安全・長寿健康ほか
あらゆるお祈りの縁と御神徳を受けられます
「射山神社 手水舎」長命水 神の井
「大黒様の恋こ槌」
拝殿の手前にあるピンク色ののぼりの間に
鳥居があります。
縁結びの神様で有名な出雲大社の神様です
射山神社では、大黒様の小槌は「恋こ槌」と呼ばれ
撫でると縁に恵まれ、願いが叶うと云われています
温泉の神様として
よって崇拝され、また
南朝一族の北畠國永郷がこの地で
長期湯治をしており和歌にして残されている
世の中の 人はすつれど千早振
神にまかせて住む榊原
なぜ榊原・・・
皇女荳角媛命(ササゲヒメノミコト)が
伊勢大神宮斎祠になられたとき、
この地に自生する榊枝をお採りになり
一夜長命水に浸し
翌日 伊勢皇大神宮に運んでいたと伝えられる
後に、地名を「榊原」と呼ぶようになったといわれます。
榊は木へんに神の字が合わさり
神と人の境界を表しています。
「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」
1500年前
かつて都の貴人が伊勢神宮参拝の前に清めの
湯垢離をしたのがこの地
七久里(七栗)の湯とは榊原温泉を指しています
榊原温泉は美人の湯として有名(つるつる・しっとり)
さらに境内には
度々榊原温泉に来られ湯治をしており
境内には「芭蕉翁反古塚」もあり、
この地で句会を開いた際に建立されたと云われています
「葉桜に袴の裾もぬれにけり はせを」
芭蕉 糸桜の句
ご縁を結ぶ強力なパワースポット
緑に包まれる射山神社と悠久の歴史を感じさせる
貝石山など、古くからの温泉地を訪れてみては如何でしょう
「御朱印」
「アクセス」
三重県津市榊原町5073
059-252-1024
誓願寺は、もとこの地より南西約四百メートルの地に
旧跡を残している古い寺院です。
現在、お堂内には本尊として十一面観音像を初め近隣の
観音堂、十王堂の祭られたものと共に多くの仏像が
安置されています。
お堂内の仏像は江戸時代初期から中期にかけて造立
地獄の裁判を象徴するえん魔像、人々の極楽浄土を
かなえる阿弥陀如来立像などが安置されています。
「御詠歌」
川の瀬も 澄みて聞こゆる 普門品
これぞ仏の 誓願時かな
本尊 十一面観世音菩薩
真言 おん まか きゃろにきゃ そわか
「本堂内」
「アクセス」
三重県津市榊原町5824-1
東王山 瑠璃光院 慎福寺
その昔、七堂伽藍を備え
寺領六百石を受領し大いに栄えたが
江戸時代の大地震により焼失
神福寺と称されたが
明治の神仏分離の際、現在の名称「慎福寺」に改称された。
境内には樹齢三百五十年余りの
しだれ銀杏がご神木とされ、
当山の「総本山長谷寺」にあやかり境内には牡丹など
花木が植えられている。
当山は真言宗であり
弘法大師によって完成されました
その教えは、自分自身が本来持っている
「仏心」「限りない人格」「さとりの世界」を
今このときに呼び起こす即身成仏に求められます。
それは、自分自身深く見つめながら
「仏のような心で」「仏のように語り」
「仏のように行う」という生き方です。
この教えをもとに、人々が共に高め
あって行く事で
世界の平和がもたらされ
理想の世界として蜜厳仏国土が完成すると云われます
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
真言 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
開山 法院紹盛上人
開創 永禄年
「本堂」
本堂内には御本尊「薬師如来」
左に「如意輪観音」
綺麗さに見入ってしまいました。
「弘法大師堂 」
「地蔵堂」
「御朱印」
「アクセス」
〒513-0801
059-382-0263
「仏画学びの会」が催されていました
令和二年十月から令和三年二月 全五回開催
詳しくは、慎福寺ホームページへ
「鳥枢沙摩明王」
不浄な物を浄化する仏様として
真言宗ではお手洗いに祀られる事もあります
トイレの仏様です。