近江国 水口城址
東海道五十番目の宿場町である水口は、
都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、
水口城は、徳川三代将軍家光が上洛するのに伴い
宿館(水口御茶屋)として築城された
築城は幕府直営で行われ、
作事奉行 小堀遠州・京都の大工頭中井家支配の
もと10万人の大工が動員された。
城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれたが、
この御殿が将軍の宿舎として使われたのは、
この家光上洛の1回限りで、その後同城は、
幕府の任命した城番が管理する「番城」となった。
加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立した
水口城は加藤氏の居城となった。
一時鳥居氏が藩主となったが、
再び加藤氏が2万5千石で藩主となり
歴代水口藩は、同城を幕府から借りている城として
大切に管理し、特に居城であるにもかかわらず、
本丸部の御殿を使用しなかった。
本丸御殿は家光上洛以後使われることなく
明治維新を迎え、水口城は廃城となった。
別 名 碧水城 (へきすいじょう)
築城主 徳川家光
城 主 加藤氏・鳥居氏
滋賀県の史跡に指定されたのを契機に保存整備
石垣の遺構が残る出丸跡(大手外枡形虎口部分)
廃城後に民家へ移築されていた、本丸乾矢倉二階造り
として再移築し水口城資料館として開館
水口城資料館内 本丸の復元模型
構造は平城で、堀に囲まれた本丸とその
北側の二の丸からなり本丸はほぼ
正方形で東に出丸をもち、御殿と四隅に櫓を配する。
二の丸には管理・警護施設が設けられ
本丸殿舎の建物構成は二条城に類似し、
数寄をこらしたものといわれている。
堀には注水坑はなく、
今も水のかれることがないなどから、
別名碧水城と呼ばれている。
本丸御殿は一部を残して撤去され
旧本丸は学校敷地となり,現水口高校の
運動場として利用されている
藤栄神社
水口藩主加藤氏の祖である加藤嘉明を祭神として造営
美濃部天満宮の旧地にあたる
江戸時代は嘉明霊社(かめいれいしゃ)と呼ばれ
藩政の引き締めの目的とあわせて城内の鎮守社としての
性格も持つ境内入り口の社号の石標は巖谷一六の書
江戸時代水口藩の東に建っていた領境標石の書は
一六の先祖にあたる岩谷影雲の手になる
祭神 加藤嘉明公
社宝に豊臣秀吉より拝領したと伝えられる糸巻太刀
洋剣・高麗鞍などがある。
武家屋敷門
浄土宗 真徳寺
真徳寺の寺門となっている寺門は、
当時の雰囲気を伝える数少ない遺構
本堂近くに、巖谷一六の墓碑が並ぶ
この真徳寺墓地に接していた、旧三忍寺墓地
旧朱印寺 浄土宗 家松山大徳寺
山門の前の石垣はめずらしい積石法(植石伏)で
小堀遠州の作といわれています。
門を入って右の鐘楼前にある石は、
家康が腰掛け叡誉上人といろいろ話し合ったと
伝えられています
徳川家康公 腰掛石
おみあげにどうぞ!
「水口城」御城印
水口藩主・加藤家の家紋「下り藤」
徳川家光の上洛の際の宿館として築城されたことから
「三葉葵(徳川葵)」
水口城と藤栄神社に伝わる「水口レイピア」
書き置き1枚300円(税込)
水口城資料館と甲賀市ひと・まち街道交流館
で購入できます。
「水口城」および「年月日」の文字は明治三筆
巖谷一六の文字を抽出したものです。
代々水口藩・加藤家の藩医をつとめていました。
0748-63-5577
(水口城資料館)